週、あるいは月報

吹けば飛ぶような話、宙に浮いた話

好きな場所にまつわるモノを眺めてぼんやりとその場所のことを考える

先日から久々に文章というか、「書くこと」をやってみて、正直びっくりした。

マジで大したこと書いてない。なんなら多分しょうもない類だ。それもかなり。三歩歩いた後で内容忘れてるくらいの。

なんや自分、全然大したこと考えてなかったんかワレ。

大したこと無いのに、大したことなんて何も書いていないのにあまりに久々に自分の中から外に向けて言葉を練りだしたものだから、投稿してから恐怖で手が震えた。何かが終わるような心地、ジェットコースターのような安全の確保された装置ではなく、身一つで崖から飛び降りたような衝動。

大袈裟な表現かもしれないが、身を切るってこういうことだったっけ?と唸る。

いろんなものを切り続けてきた気がして、感覚が鈍りすぎた反動で何もしなかった結果、久々に切り傷ができて血が出たような気分になる。

なるほど、やはり「想像する」と「やってみる」の間にある隔たりは凄まじく大きく、もはや世界すら違っている。

「やった者にしかわからない」というのは本当なのだろう。

いつだって妄想の中では偉大でいられる。しょうもないことでも、実際に出してみると、肥大した空想の都合の良さが削ぎ落とされて、何者でもない自分を自覚する。自分で自分を切り刻んでいる。筋トレで肉体を痛めつけるのとおそらくは似た感じ。

山月記の虎を思い出す。山月記を読んだのは確か高校生の頃。詳細は忘れてしまったけれど、どちらかというと自分は虎側なんじゃないかな、とぼんやり思っていただろうか。遠い昔のことであんまり覚えていない。あれは本当に自分だったんだろうか。

「何者かになれると思っていた」「何者かにならねばならない」という呪いの凄まじさを、よく折に触れて実感する。

この頃は、何者でもなくとも自分のやりたいようにやることに比重を置いて生きている。

結局やりたいようにしかやれないのだ。残念ながらというべきか、祝福すべきことなのか。

こうやって今日も書いてはみているけれど、一体誰が読むのかもわからない。自分以外、本当に誰も読んでいないかもしれない。

自分がしょうもなくて笑ってしまう。内から外へなにかを切り刻む度に。

逆にすっきりもする。

頭の中でただ何かをごちゃごちゃと練っているだけ、動いていない時が一番自意識過剰で自己意識が肥大化している。同時に過去のあらゆる記憶が自分を圧迫する。何かになりたいのに同じくらいそんな資格なんてないと思う。自罰と反逆。

頭の中だけで自分の存在を膨らませるには、あまりにも人生は長すぎるし重すぎる。

たとえクソしょうもなくても明日には自分ですら忘れていても、やれることをやり続けた方が、手を動かしてみた方がしょうもないなりに多少は研磨されるのかもな、と百周だか千周だか回って至る。

臭いドブの中ような人生でも、そのまま沈むくらいなら綺麗な場所に出ることを願って泳いだ方が気も紛れるし。

動かずにただじっとしていることがあまり性に合っていないだけかもしれない。

最近そういう諦めというか、一種の折り合いのようなものが一つついた。

誰かに共感してほしいとか、他者に何か求めたいというよりは、ただ自分のために何かをしたくてこうやって場を作ってひたすら喋り続けている。

ついでに誰かとすれ違うように少し交差しては離れて、という感じになれば一番いいのかもしれない。

宙に浮きながら、通りすがる誰かをずっと待っていながら、一人でぼんやりと空を眺めている。

多分本当に、ただそれだけのことだと思う。

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