厳寒を越えて暖かさが増してから、一気に春が来た。もう春も過ぎ去っている。
もっと頻繁にここの記事を書くつもりが、すっかり季節を見送って今である。これでは月報ですらなくもはや季報(稀)だ。今年の梅はほとんど見逃し、桃と木瓜をギリギリ見ることができた。桜はしっかりと家の周りのものを見た。じっくりと散歩をして。
去年より少し桜は早かっただろうか。ここ二か月くらい、自分のiPhoneのカメラロールはほとんど季節の花の記録で埋まっている。
ところで春と言えばソメイヨシノだが、毎年しっかり目に焼き付け写真も大量に撮っているのに、毎年散り際に名残惜しいと思うのは不思議だ。同じ桜でも、八重桜にはそこまでの感慨を感じていないことに気付く。好きなことには変わりないのだが。グラデーションのように、好きにも淡く差があるのかもしれない。
こうして桜も散り、シロツメクサが咲き、ハナミズキが花開いて枯れ、藤がスズメバチを呼び密を吸わせ、ツツジが咲いて花を落としている。
木々には新しい葉が芽吹いた。今の日差しはすっかり初夏のそれだ。ツバメも戻ってきていて、巣を作り、青い空の下、人間の傍をのびのび飛んでいる。
実は正月よりも桜よりも、「新しい季節を迎えているのだ」と強く実感するのは今ごろだったりする。若葉が陽光に照らされ青々と輝くさま、あたりは見渡すかぎりみずみずしい景色が広がっている。風もまだからりと乾いている。なんとも贅沢なことだ。
今の土地に暮らし始めて三回目の春、それから初夏だった。この場所のこの季節は今年も燦然と輝いている。随分とこの場所や家にもなじんできたが、それでも確実に色々なことが変化している。
気付けば家で育てている植物の根が、植木鉢から容易に抜けない程度にはしっかりと張っていた(困った)。鉢の底穴から根が出ているものもある。そろそろ植え替えかと思ってはいたが、この家は本当によく植物が育つようだ。Instagramで「植物や花のよく育つ家は良い気が流れている」と言ってくださった方がいたが、今そういう空気が自室に流れているなら良いなと思う。
この二月あたりから四月くらいまで季節を感じつつも根底ではどこか草臥れていたのが、ようやくそれなりに気力体力共に戻ってきたのを感じている。植物が活動する時期は人間も元気になるのだろうか。
このところ、携帯ラジオから地方のラジオ局番組を流しながら飯を煮炊きし、本をゆっくりと読み、これからどんなものを創っていこうかと空想を膨らませながら散歩し、働き、夜は風呂に浸かり眠る。地に足のついた暮らしをしている。
ところで、二月に誕生日を迎えたのだが、友人に誕生日プレゼントを贈ってもらうことになった。熟考した末に選んだものは、画材のソフトパステル。坂口恭平さんのパステル画を見て、自分もやってみたいと直感で選んだのだった。
正直使い方もほぼ分からない。風景画なんて大して描いたこともない。それでも描いてみたいとはっきりと思ったので、きっと何か縁があったのだろう。
最近何かにつけてとりあえず続けてみれば下手なりに上手くなるということが体験として分かってきたので、とりあえずパステルがちびてくるまでは続けて何かしら描き続けてみようと思う。描きたい風景は昔から描き切れないほどあるので。
というよりは、結局どんなに空白期間があろうと、何かを創っている前提でずっとものを見ている自分がいる。何も創らず今後の人生を送る自分を片時も想像できない。たとえ誰にも見向かれずとも、金にならずとも、下手だろうと私は一生何かを創り続けるのだろう。文章しかり、写真しかり、絵しかり。
冬の間、創りたい気持ちを内心にじりじりと燻ぶらせ、チリチリ焼け焦げるような気分でじっとりと静かに過ごしていたのが、ようやく芽が出て清々しく過ごせるだろうか。
そうであってほしいと願いながら、久々の報を締めくくる。